新居浜太鼓台

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開催日 10月16,17,18日
開催地域 新居浜市一帯

 
[歴史・由緒]
地域の伝承によると、祭礼の時、神輿に供奉する山車の一種で信仰を対象にした神輿渡御の際、その列に参加して厳かに供奉し、豊年の秋を感謝して氏神に奉納していたもので、その起源平安時代、鎌倉時代とも言われています。

現在9地区52台の太鼓台が参加をし、各太鼓台が氏神から出て氏子地域を回ったり、かきくらべを行っております。
太鼓台は重量が約2トン 高さ5メートル 長さ10メートル かき夫 1台に約150名で写真の様に上から天幕・蒲団締・上幕・高欄幕・かき棒と豪華絢爛色とりどりな装飾で祭りを彩っています。

    

西条のだんじり・みこし (西条市指定有形民俗文化財)

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開催日 10月上旬から中旬
開催地域 西条市の一部(西条、小松、東予)

 
[歴史・由緒]
西条のだんじり・みこしは一般に「屋台」、「楽車」と呼ばれ、始まりは江戸時代に、石岡神社、伊曽乃神社の例祭に氏子町内から奉納されたことが文献で記されています。
中でも伊曽乃神社のだんじり・みこしは80台余りで、全国的に類をみない規模を誇っています。

traditional_13例祭のはじまりである15日の宮出しには、提灯姿で境内に勢揃いし、御神輿(ごしんよ)の御出ましを迎え、御立ちの後は三々五々町内を自由に練り歩き、御神輿が町内へ巡幸され始めたことを告げます。
翌16日は未明より提灯の灯りを揺らしながら御旅所に集結する様は絢爛豪華であります。
御旅所での神事を納めると統一運行がはじまり、御神輿に供奉して旧市内中心部を練り歩き、夕刻に御旅所西側の加茂川土手で川入りを迎え御神輿の還御を見送ります。

大山祇神社の御田植祭

大山祇神社の御田植祭

開催日 大山祇神社の祭礼 旧暦5月5日
開催地域 大山祇神社境内

 
[歴史・由緒]
神輿渡御や一人角力神事・御田植神事を行います。神輿渡御は宮司や神職、力士や行司、そして早乙女が本殿から斎田御桟敷殿前まで渡御をします。
 
一人角力は力士
 
 
一人角力は力士1名・行司1名、御田植神事は早乙女や柄振男、田男で奉仕をします。そのうち一人角力は愛媛県の無形民俗文化財に指定をされています。
御田植祭は貞治3年(1364)には既に行われていたとされています。

東予の継ぎ獅子(一部地域除く)(県指定無形民族文化財)

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開催日 今治地方春祭り
開催地域 今治・旧越智郡

 
[歴史・由緒]
今治・越智地方で見られる各神社の春季祭礼に奉納される獅子舞です。「継ぎ獅子」と呼ばれる立ち芸が特徴で台の方に中台が立ちその上に獅子児と呼ばれる少年が乗りその少年は獅子頭を被り曲芸を披露します。
由来は諸説あるが伊勢神楽の「代々神楽」の流れをくみ、150年以上の伝統があります。
演目は「立ち芸」「使い込み」「提婆」「悪魔払い」「立芸」「餅つき」「三番叟」と多彩で様々な所で芸を披露をし、
現在では48通り中12通りが伝承されております。
披露される場所も様々で御旅所や境内、神社の階段や船上など色々な所で披露されます。
一般的なのが三継ぎで、乗る人数で二継ぎ・三継ぎ・四継ぎ・五継ぎとなります。

菊間町お供馬 (県指定無形民族文化財)

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開催日 毎年10月第三日曜日
開催地域 菊間町 加茂神社(今治市菊間町)

 
[由 緒]
お供馬とは、加茂神社秋季大祭(菊間祭り)に神社境内にて午前8時より神輿の渡御開始の11時まで、子供の騎手が着飾った馬に乗り込み、境内参道馬場を駆け抜ける走りこみ行事です。また、その神馬、騎手は神輿渡御に供奉し御旅所へお供し、神事の後解散するので(お供馬)と言われています。

騎手の子供たちは、1歳から15歳までで、走りこみ参加は小学3年生頃より中学3年生までで、馬場約300メートル
の参道を美しく飾った馬に乗って一気に疾走する景観は、馬を使用する祭事では国内ほかに例がなく実に勇壮華麗な祭り
行事です。

御面渡御祭

東温市 御面渡御祭

開催日 毎年12月20日
開催地域 牛渕:浮嶋神社 野田:徳威三嶋宮

 
[由緒・様子]
東温市牛渕の浮嶋神社と野田の徳威三嶋宮では、毎年12月20日に古くから伝わる三体の御面を受け渡す「御面渡御祭」が執り行われます。
地域の人々には「ごめんさん」と言われ親しまれている伝統祭事です。
この御面は、古い伝説と歴史的に複雑な由来を持った古面ですが、江戸時代中期に所有権争いが起こり、享保17年(1732)5月に寺社奉行から「極月二十日を限り相互に受け渡し致す可き事」との裁定が下り、以来、御面は両神社間を渡御するようになり、現在まで約300年間続いています。
「御面渡御祭」の当日は、御面が鎮座している神社に両神社の神職・宮総代・関係者が後に続き、受け渡す神社まで約1キロ行列します。到着した神社で御面鎮座の神事をして祭事は終了し、向後1年間はその神社で御面をお祀りします。
御面は、三面の翁面です。一面は鎌倉時代、二面は室町時代の作で、東温市の有形文化財になっています。藩政時代には、「雨乞い神事」に用いられ、霊験あらたかな神面ですが、
「御面渡御祭」の日には拝観することができます。

一体走り(松山市指定無形民俗文化財)

一体走り画像

開催日 10月7日
開催地域 勝岡八幡神社

 
[由緒・歴史]
勝岡八幡神社の秋の祭礼に行われ、社頭からお旅所までの参道約100mあまりを、氏子の青年10人程が鉢巻を締め、褌姿に襷(たすき)掛けで神輿をかつぎ、一体の神輿をかついで神輿を上下左右に動揺させぬように、美しいフォームで早く走ることを競いあいます。
和気郡代官所記録(1754年)に記載があり、江戸中期にはすでに行われていたようで、起源は朝廷から宮号と菊花の紋章を下賜された際、勝岡の特産品であった塩を献上。以来、宮中に献上する際に裸の若者(輿丁)たちが塩をかつぎ和気浜沖に停泊する御用船まで運んだ、という言い伝えに由来するという説があります。

虎舞(とらまい)

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開催日 10月7日
開催地域 嚴島神社(松山市神田町)

 
[由緒・歴史]
嚴島神社の秋祭りに古三津虎舞保存会により奉納される加藤嘉明の虎狩りにちなんだ虎舞です。
賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の猛将の一人、初代松山城主、加藤嘉明が淡路の志知城(しちじょう)から、伊豫松前城主となったのは文禄4年(1595年)7月21日。慶長2年(1597年)2月には豊臣秀吉の第2回朝鮮出兵に伊予の勇士2400人を率いて出兵し、敵首1535を得ました。
翌年慶長3年(1598年)春、朝鮮の山中で虎狩りを行い、猛虎を獲得して、その頭と皮を秀吉に献じたところ大いに喜ばれたと伊予古文書に記録されています。
この猛虎狩りの様子を舞にしたものが今日の虎舞で、尻尾の先が黒いのが朝鮮虎の特徴と言われています。

伊予源之丞 (県指定無形民俗文化財)

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開催日 7月10日
開催地域 恵美須神社(旧三穂神社)
(松山市三津)

 
[由緒・歴史]
伊予源之丞(いよげんのじょう)は松山市古三津を拠点とする人形浄瑠璃で県民俗文化財に指定されています。
明治時代の初めに、三津新町で荒物屋を営んでいた宝来屋(烏谷)新造が、「宝来座」を組織し、三穂神社で人形芝居を始め、阿波から人形道具衣装を購入しました。
明治20(1887)年以降、大型の頭の淡路人形を導入、大正時代には吉村座(松山市吉田)、泉座(松山市泉)、上村六之丞(松山)を合わせて60人を超える大きな座となりました。
しかし、有志によって再興され、昭和10(1935)年に上村治太夫(松山市三津)を吸収して、現在名の「伊予源之丞」となりました。
現在残っている人形頭は、名人の天狗久の作品を県下では最も多く所有しているのが特徴で、明治40(1907)年前後の作品が中心をなしています。

興居島の船踊り (国選択県指定無形民俗文化財)

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開催日 10月
開催地域 船越和気比賣神社

 
[由緒・歴史]
船越和気比賣神社の秋祭りにおいて、海上の船台に舞台を組み、太鼓と拍子木のリズムに合わせて、歌舞伎のような手振り身振りで行う無言劇。
その起源は1000年前にさかのぼり、伊予水軍が活躍した承平年間(平安時代中期)と言われる。水軍の凱旋の行事として激戦の様子を島民に伝えたのが始まりとされ、以来祭礼行事化して今日に伝承されています。
海上に4隻の踊り船が並び、それぞれ違う演目で踊りを競い合った時代もありましたが、現在は由良地区と泊地区の2つの保存会が1年交代で演じています。
踊りは船の中心で踊る「中踊り」を中心に、前方で伊予水軍の剣法を示す「ボンデン踊り」、斬りこみを表す後部の「ケンガイ踊り」で構成されます。
松山市の代表的な郷土芸能である「水軍太鼓」は、この船踊りのリズムが原曲です。

上怒和の獅子舞 (松山市指定無形民俗文化財)

上怒和獅子舞画像

開催日 10月10日~12日
開催地域 上怒和

 
[由緒・歴史]
秋祭りの際、普通のものより大きな獅子頭や胴をつけ、二人で勇壮に舞う獅子舞。鳴り物は太鼓だけで、雄獅子と雌獅子があり、宮出しには雄獅子を御旅所では雌獅子を使います。
明確ではないが江戸末期に「宮脇家」の先代が伊予郡の郡中方面から伝えたとのが由来とされ、獅子箱には明治21年(1887年)の明記があります。

八幡神社 御神幸祭(お成り)

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開催日 毎年11月2日
開催地域 八幡神社(大洲市阿蔵甲)

 
[歴史・由緒]
八幡神社の御神幸祭は、古くより「お成り」と呼ばれ、毎年11月2日(例祭の翌日)に行われます。御祭神の御神霊が3基の鳳輦(ほうれん:お神輿)にお遷りになり、装束をまとった約 280名のお供に護られながら大洲市街約12キロを巡幸します。 
藩政時代より続くこのお成りは、かつては約600名が参列し、大洲藩より御長柄(おながえ)120組、鉄砲組60挺が先駆を奉仕し、藩主から神馬3頭が供奉されていました。行列の先駆を務める御長柄組の歩調は、太鼓に合わせた独特の動きで、大洲藩の参勤交代の時の歩調を今に伝えていると言われており、この行列の大きな特徴となっています。大洲藩は明治維新の東京遷都の際、行列の先頭を務めましたが、その際の歩調が美しく、「大洲藩の江戸城入場の行列は他藩に比べて格別に美しい」と大いに評判になったと伝えられています。
「お成り」がいつ始まったかはっきりしたことは不明ですが、お成りで使用する神盾には、寛保2年(1742)に神盾八枚が作られたことが記されており、他に矛などにも同様の記述が見られることから、約260年前には現在の形に整備されたと思われます。当時の神具、神輿の多くが今でも現役で使用されているのもこの行列の特徴の1つです。

長命講伊勢踊り(県指定無形民俗文化財)

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開催日 毎月旧暦11日
開催地域 神明神社(八幡浜市穴井地区)

 
[歴史・由緒]
神明神社では毎月旧暦の十一日に愛媛県の無形民俗文化財に指定されている「長命講伊勢踊り」が奉納されています。
そもそも今から四百年ほど前の慶長年間あたりから村ごとに大きな集団になって踊りながら伊勢神宮へお参りに出掛けるようになったのが「伊勢踊り」の始まりでした。
伊勢踊りが穴井地区の神明神社に伝わったのが一説によると今から三百七十年余り前の寛永年間(一六二四~一六二九年)に隣の土佐の国から宇和郡といわれていた今の南予地方に伝えられ、その後、宇和島藩の初代藩主伊達秀宗によって手厚く庇護され穴井地方でも行われるようになったといわれています。
また「長命講」とは、五十歳以上、平均年齢が七十五歳を超える元気な老人が取り仕切ることからこう言われています。
旧暦の正月・五月・九月の十一日が大祭でそれ以外の月の十一日は月次祭となっています。
月次祭での服装は平服です。大祭の時は正式の装束を身に着けます。(白のくくり袴に千早、頭に鳥帽子。これは伊勢踊りが始まった江戸時代に近い素朴な装束です。)
踊りは太鼓のリズムに合わせて歌いながら20分掛けて踊り10分休憩を3回繰り返します。
以前は踊りを六回奉納されていました。近頃は、みかんの収穫で忙しい時期の十一月・十二月は伊勢踊りの奉納もお休みしています。

穴井歌舞伎 (八幡浜市指定有形民俗文化財)

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開催日 毎年旧正月11日 昭和27年頃から休止中
開催地域 八幡浜市穴井地区芝居小屋

 
[歴史・由緒]
一七八三(天明三)年長命講伊勢踊りの脇踊りとして穴井芝居が創設され、毎年行われるようになりました。しかし一八四一(天保十二)年幕府の緊縮令により禁止され、取り締まりを逃れるため、穴井・神明神社の「脇踊り」(和気踊り)として存続されました。
その後、緊縮令も次第に緩み、この踊りも歌舞伎を取り入れ非常に盛大になりました
上演は毎年旧正月十一日の神明神社の春祭り(伊勢踊り)に御旅所(幅約十五mの舞台)で行い、観客は村民のほか大島・三瓶・川名津・若山方面からも集まり、その数二千人に達します。
衣装は、三番叟に用いた各太夫の衣装十四点、義経千本桜すし屋の段に用いたもの二十数点、その他二百四十数点、この外、舞台幕十七点、カツラ二十八個、小物多数あります。これらは現在真穴地区公民館に保存されております。
穴井歌舞伎の衣装類は、県内有数の地芝居資料で、今後の調査研究に大いに役立つ貴重なものである。

乙亥大相撲(愛宕神社例祭奉納相撲)

第163回乙亥大相撲

開催日 毎年11月下旬乙亥(きのとい)の日
(2日間)
開催地域 乙亥会館 西予市野村町12-10

 
[歴史・由緒]
嘉永5年(1852)野村は大干害で畑作の陸稲やトウモロコシなどが枯死した。6月25日に現在の氏宮部落から出火し、総罹災戸数100戸、棟数260棟という大火災が起こる。

今後、火災の発生を封じるため、庄屋「緒方家」の15代緒方惟貞氏が三嶋神社の境内地に祠神社を建立し無火災を祈願、その後町内の愛宕山に移築境内社「愛宕神社」として100年間の毎年11月下旬乙亥(きのとい)の日に三十三結びの願相撲を奉納し、無火災を祈願したのが始まりです。
祈願奉納相撲は昭和27年に百年を迎えたが地方祭として定着し、「乙亥大相撲」として全国でも唯一のプロ・アマ力士の対戦をはじめ、地元小・中・一般青年の対抗戦や幕内力士による稚児の土俵入りなどが二日間にわたり行われます。

伊豫神楽(国指定重要無形民俗文化財)

伊予神楽

開催日 宇和島市周辺の各神社の祭礼
開催地域 宇和島市周辺地域

 
[歴史・由緒]
伊予神楽は愛媛県南予地方に遠く鎌倉時代以前より現在に伝わる神楽で、男性の神主だけで奉仕され、神楽全体が神事という特長をもっています。伊予神楽は男神子四国神楽といって、四国の神楽の宗源をなすもので非常に古い歴史を持ちます。その創始は現在では不明となっていますが、宇和島市八幡神社には嘉元3年9月(西暦1305年、鎌倉時代)の銘がある舞楽面が残されており、それ以前より伝承されていたことは確かです。
昭和36年3月30日に第一号として愛媛県無形文化財の指定を受け、また昭和56年4月21日に国指定無形重要文化財の指定を受けています(第45号)。

宇和島市 鹿踊り (宇和島市指定無形民俗文化財)

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開催日 南予地区秋祭り時期
開催地域 南予地区

 
[歴史・由緒]
鹿踊りとは、鹿の頭を付けた太鼓を胸にかけて歌を歌いながら優美に舞う、旧宇和島藩を中心に南予の祭礼に登場する民俗芸能です。
宇和島市においては変声前期の男子8名による「八ツ鹿踊り」が舞われるが、その形態は過疎化の影響もあり、地域により異なります。呼称は「○シ鹿」となるが、宇和島市と西予市城川町に八頭で舞われる八ツ鹿がある他、七、六、五頭で舞う鹿踊りが存在します。
この鹿踊りは1615年(元和元年)に入部した初代宇和島藩主伊達秀宗の出身地である旧仙台藩と関わりがあるといわれています。
仙台には現在も恐ろしい形相を示す面を付け、除災や祖先供養、五穀豊穣の意味を含んだ盆の「シシ踊り」が存在するが、南予地区の優美な鹿踊りとは対照的である。これは神社祭礼に登場するにあたり、牛鬼や獅子舞などの祓えの役割を担う練り物が存在したため、招福を期待して変化が起きたものと考えられています。
宇和島の八ツ鹿踊りにおいては、伊達秀宗公より一ノ宮と定められた「いっくさま」の愛称で呼ばれる宇和島宇和津彦神社の秋の祭礼に登場します。